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東洋人初のパリ・オートクチュールデザイナー、森英恵とは

2022年8月に96歳で他界したファッションデザイナーの森英恵。日本のファッションデザイン界における功績はもとより、あらゆる面でパイオニアであり、日本女性のロールモデルでもありました。最近ではゴールデン・グローブ授賞式でカイリー・ジェンナーが森英恵の1998年秋冬クチュールコレクションのヴィンテージドレスを着用したことでも話題に。今回はデザイナー・森英恵の軌跡を紹介します。

【目次】
森英恵とは
代名詞は「マダム・バタフライ」
数々の映画衣装を手掛ける
オートクチュールの世界へ
森英恵とガブリエル・シャネル
女性の社会進出の先駆者

森英恵とは

蝶をあしらったエレガントなデザインで知られる森英恵は、日本において働く女性の先駆者としてデザイナーの道を切り拓いた人物でもあります。島根県に生まれた森は東京女子大学を卒業し、卒業と同時に結婚。主婦業をこなしながらも新婚3ヵ月目で杉野ドレスメーカー女学院(現・学校法人 杉野学園 ドレスメーカー学院)に入学し、1951年には東京・新宿に「ひよしや」というアトリエを兼ねた店舗を開店します。戦後間もなかった当時、洋装店は珍しく、おしゃれを楽しみたい女性を中心に、評判を聞きつけた外国人将校の妻なども来店したそう。また、この頃に映画衣装の依頼を受けるようになります。

世界への躍進のきっかけとなったのは、1961年のパリ旅行。当時ピエール・カルダンの専属モデルとして渡仏する友人と一緒にパリへ赴き、ひと月の滞在期間中は語学学校でみっちりとフランス語を学んだのだとか。その後1965年に渡米して海外で初となるコレクションを発表し、以降は日本航空の客室乗務員の制服デザインをはじめ、グレース公妃の招聘でモナコでショーを開催。1977年にはパリ・オートクチュール組合に加入し、東洋人初の正式会員として認定されました。


代名詞は「マダム・バタフライ」

ニューヨークで初コレクションを発表した際、日本の伝統と西洋のファッションを融合させる独自のスタイルが喝采を浴びた森。色彩豊かでエレガント、かつ優美なデザインを彩るのは、森英恵の代表的アイコンである「蝶」のモチーフです。なぜ蝶だったのかについて、かつて彼女はこう語っていました。

―「60年代にニューヨークでオペラ、マダム・バタフライを観劇した際、下駄を履いて畳を歩く蝶々夫人に憤慨し、私が蝶のイメージを変えてやる、と思った」―

また、森が幼少期を過ごした島根と山口の県境にある六日市町(現在の吉賀町)は自然豊かな場所で、ここで見たモンシロチョウが舞う風景が蝶モチーフの原型であるとも話しています。1985年にはミラノ・スカラ座で上演されたオペラ「蝶々夫人」の衣装デザインも手がけ、いつしか森英恵自身が「マダム・バタフライ」の愛称で世界から親しまれるように。以来、蝶モチーフといえば森英恵、というイメージが定着しました。


数々の映画衣装を手掛ける

森英恵の輝かしい経歴の中で、意外と知られていないのが映画衣装についてではないでしょうか。森が映画衣装に携わるようになったのは、新宿に「ひよしや」を開店した時分のこと。森が生み出す目新しいデザインや高い技術が文化人の目に留まり、日活の美術監督と衣装部の男性が店を訪れたのがきっかけでした。最初に衣装デザイナーとして参加した日活「かくて夢あり」(千葉泰樹監督、1954年)を皮切りに、「太陽の季節」(古川卓巳監督、1956年)、「狂った果実」(中平康監督、1956年)など、約10年の間に実に数百本もの映画衣装を手掛けたのです。彼女が関わったのは日活にとどまらず、松竹や東映など、各映画制作会社から引っ張りだこの人気を得ました。晩年の小津安二郎が撮った5作品でも衣装を担当するなど、映画衣装との関わりが非常に深かったのです。


オートクチュールの世界へ

東洋人で女性である森英恵が1977年にパリ・オートクチュール協会の正会員になったことは、彼女の功績の中でも特筆すべきこと。正会員として認められるには高い創造性と技術力に加え、パリにアトリエを構えていることなどの厳格な基準があるうえ、当時のデザイナー界は男性が中心。そこに和洋の融合という独自の美を武器に乗り込んでいきました。ちなみに森が正会員となってから10年後、1988年の時点でもパリ・オートクチュール協会の正会員は16メゾンで国外メンバーは9人、日本人は森英恵のみだったことからも、彼女の功績の凄さがわかるかと思います。今思えば映画衣装を手掛けていた当時、役者に合わせてデザインをする経験がのちのオートクチュールの基礎となったのかもしれませんね。


森英恵とガブリエル・シャネル

デザイナーとして開花した森英恵ですが、その道標となったのが1961年のガブリエル・シャネルとの出会いでした。初めてパリを訪れた際に鑑賞したオートクチュールのショーでシャネルに刺激を受けた森は、東洋人で初めてシャネルのサロンを訪れ、自分のためにスーツをオーダーします。そこでココ・シャネル(ガブリエル・シャネル)から森の漆黒の髪には対照的な鮮やかなオレンジが合うと提案され、女性が際立つ服作りに触れました。その経験から自らのデザインのアプローチを変え、ブランドのフィロソフィーが生まれたのです。


女性の社会進出の先駆者

ビルの2階に構えた小さな洋装店から世界へと、まさに蝶の如く羽ばたいた森英恵。デザイナーとして日本人にその間口を大きく開いただけでなく、女性の社会進出のパイオニアでもあります。森が仕事を始めた当時の日本は、男性が働き女性は家庭を守るのが一般的。単身海外へ渡りファッションという厳しい世界で挑戦する森の活躍は多くの女性の憧れとなり、また、森自身の気品あふれる姿と相まって女性たちのロールモデルとなりました。今でこそ仕事を持つ女性が多いですが、その根底には少なからず森英恵が日本人女性に与えた影響があったのだと思います。

TEXT:横田愛子

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