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デザイナー奥嶋幸子(manielle)の「希少性」と「クオリティ」にこだわる服作りと原動力

自分が着て欲しいと思った人にだけに販売する ――。より多くの人に商品を売りたいアパレルブランドが多い中、その流れに逆行して独自の道を歩み続けるデザイナーの奥嶋幸子さん。かつては大手アパレル会社で社内ブランドのディレクターとデザイナーを兼任。2012年に独立をして「manielle(マニエル)」を立ち上げ、今年でデザイナーとして21年目を迎えました。そんな奥嶋さんに、ファッションや自身のブランドについて伺いました。


ファッションに目覚めたのは14歳

―― テレビで見た、ひとりの女の子が、奥嶋さんを大きく変えたそうですね。

実家は山口県の田舎で、当時持っていた洋服といえば学校の制服と普段着、パジャマくらい(笑)。ファッションとは縁遠い子供時代でした。でもある時、当時流行っていたバラエティ番組に宮沢りえさんが出ていて、初見でその可愛さに衝撃を受けました。セブンティーンという雑誌でモデルをしていると知ってすぐに買いに行ったけど、実家近くの書店では取扱いがなくて。それで毎月定期購読をするからと取り寄せてもらい、夢中で読みました。雑誌の中でモデルさんたちが纏う洋服がキラキラと見えて、それがファッションに興味を持つきっかけだったんです。

その時に将来はファッションで生きていこうと決めたのですが、両親は大反対。両親にとってはわからない世界だから心配したのだと思います。以前、紅白歌合戦で某アーティストの衣装を担当させていただいた時、これで喜んでくれるかなぁと思ったけれど、まだまだ心配はあるみたいです(笑)。だから私、高校を出てすぐに専門学校に入学した訳ではないんですよ。

―― 美術系の高校を卒業後は、大学に進学されたとか。

そうですね、県内の大学を出てから大阪に移り、大阪モード学園に入学しました。反対を押し切って大阪に出てきたので、学費と生活費のことも考え、夜間コースを選択しました。高校卒業時に被服検定1級を取っていたこともあり、専門学校の先生の紹介で昼間は縫製工場で働いていたんです。大変でしたが、その工場はジバンシイなどの一流ブランドの縫製をメインにしていたので、縫製や工場、職人さんの仕事を、実体験として学ぶことができました。それが今に繋がっています。私の服作りで欠かせないことの中に、工場の職人さんたちへの想いがあるんです。それはやっぱり、工場で学んだ経験があったからこそですね。

その後、専門学校を卒業してからインディーズブランドを立ち上げたのですが、まだ実力が伴っていないと感じたので、一度たたんで、大手アパレル会社に就職しました。当初は販売員として店に立っていました。

独立の理由と譲れないこと

―― 会社ではトップセールスを記録し、着こなしにファンが多かったことから異例の速さで社内ブランドを任されることになったそうですね。

やりがいも楽しさもあり、デザイナー兼ディレクターとして各地を飛び回って、朝から夜まで働いていました。だけど本当に自分が作りたい服との乖離もありました。服ってデザインだけでなく、価格や品質も大切ですよね。個人的にはもっと品質を上げて価格を抑えたいと感じていたけれど、社内デザイナーではそこまで携われない。それもあって独立し、「manielle」を立ち上げたんです。

―― 独立することで変わったこと、変わらないことはありますか?

デザインする服のテイストは一貫してブレていませんが、品質は妥協せず、流行にとらわれることなく色褪せずに長く着られることを大切にしています。そのために生地は全てヨーロッパから、縫製は日本でと決めているんです。

私が服作りで譲れないのは、まず顧客様への、そして職人さんたちへの想い。それに服が好きという気持ちです。実は「manielle」の顧客様の多くが前に社内ブランドをしていた時からのお客様で、私のデザインを本当に気に入ってくださっている方々なんです。そんな皆さんに、より良い品質のものを適正な価格で届けたいと思ったのも独立の理由のひとつ。また、工場で働いた経験があるので、デザイン先行の無理な縫製依頼に現場が困惑することも知っています。そのため職人さんたちが仕事しやすく、その結果良いものが作れるデザインと指示ができるのは強みですね。

「manielle」の服はワンサイズ展開なので、着られる人も限られます。それに私が着てほしいと思った人にだけ販売するというわがままな方式なので(笑)、ブランド自体を大きくしたいという野望はありません。それよりも少ない数の人に愛してもらえる、所有することで幸せを感じてもらえる服作りをしたい。顧客様の数が限られているから、デザイン画を描くときにあの人をイメージしながら描く、という作業もできます。いわば小規模で手が届くオートクチュール。そんな感覚でこれからも服を生み出していきたいですね。

好き、を突き動かす原動力

―― アパレル会社で才能を買われ、独立後も顧客の方と良い関係を築かれていて順風満帆に見えますが、大変な時期はありましたか?

子育てと仕事の両立です。アパレル業界の一線で活躍する女性って、未だに子供を持たない人が多数派。そんな時に子供を授かったので仕事との両立を先陣を切ってやろうという気持ちになりました。けれど独立と出産の時期が重なったこともあり、実際はとんでもなく大変。子育ての最中は何度も挫けそうに。インターナショナルスクールに離乳前の娘を預けて仕事をする日々でしたが、おおらかな教育をしてくれるスクールの先生にすごく助けられましたね。

その娘も中学生になり、私を反面教師にしたのか(笑)すごくしっかりした子に育ってくれています。あの当時、何度も無理だと思いながらも頑張れたのは、周囲の人がいたこと、そして何より服が好きだからです。自分が好きなことをやっている、洋服を作る環境がある。そこへの感謝が原動力。体力と気力は西日本一だと自負していますが(笑)、そのパワーをくれたのも好きなことを仕事にしていたからこそかもしれません。

―― 生地の仕入れからデザイン・発注・販売までご自身でこなされていますが、今後スタッフを雇い入れることも考えておられるとか?

私のモットーに「揺り籠から墓場まで」というのがあって、これは服の目線での言葉なんです。糸一本の状態から服になって誰かを包み、ゴミになるまでを見届けたい。逆に言えば最後までしっかりと着られる服を作るという責任感です。これができるのは一人だからこそですが、その分、作業量は膨大。でも全て私のペースでできるのでノンストレスで楽しいんですよね。けれど最近はオンライン販売での対応なども含め仕事量が増え、年齢と共に自分のパフォーマンスが落ちてきたように感じます。そのため何人か既に面接しているのですが、来てほしいのは自分の話ではなくお客様の話をしっかりと聞ける人、そして誰でもできる仕事だとしても誰より一生懸命頑張ることができる人。服に携わる仕事ってオシャレが好きなだけじゃダメで。服はもちろんですが、お客さまが好きという気持ちがすごく大切だと思うんですよ。

ブランドの立ち上げから現在まで走り続けてきた奥嶋さん。これからファッション業界を目指す人に向けてメッセージをお願いすると、「ミシンを踏んだ経験は必ず役に立つので専門学校で学んでほしい。そして良い先生と出会ってほしいことに加え、情報過多の時代だからこそ自分の核となる部分を無くさないよう、情報を取捨選択する目を持って欲しい」とのこと。服作りは自分の世界観を表現し、それに共感してくれる人と出会う仕事。今その環境に恵まれていることに感謝しつつ、長く愛せ、持っているだけで心ときめく一着を待つ人のため、彼女は今日も服を作り続けています。


奥嶋 幸子 おくしま・さちこ

大手アパレル会社で社内ブランドのディレクターとデザイナーを経験した後、独立して完全予約制のブランド「manielle(マニエル)」を立ち上げ。“揺り籠から墓場”をモットーに大好きな服作りに取り組んでいる。

https://www.instagram.com/manielle_official/


TEXT:横田愛子

PHOTO:大久保啓二

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