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玉木新雌が挑む「進化する播州織」 伝統を継ぎ、伝えていくということ【前編】

豊かな自然に囲まれた兵庫県西脇市。“日本のへそ”と称されるその地で伝統ある播州織を織り続け、革新的な播州織作品を世界に向けて発信する玉木新雌さん。元々は繊維商社でパタンナーとして活動していた彼女が播州織と出会い、独立して現在のカタチにするまでの間には様々な苦労や挑戦がありました。しかし、今や彼女が生んだ“tamaki niime“は世界中にファンを獲得し、作品のみならずラボ&ショールームを取り巻く様々なもの・ことにまで広がりを見せています。そんな玉木さんに、独立とブランドの立ち上げ、事業の拡大や働き方までお話を伺いました。前編となる今回は、播州織との出会いやブランドについて、次回の後編では働き方や求める人材についてフォーカスします。


tamaki niimeができるまで

まるで空気のように軽く、なんともいえず柔らかなショール。ブランドを立ち上げるきっかけとなったショールはtamaki niimeの代名詞的存在でもあり、現在はショールのみならずアパレル全般の幅広い作品をローンチしています。先染めした糸を織り上げる播州織はどれひとつとして同じ柄のない1点ものが魅力。そんな播州織に魅せられるもっと以前、玉木さんは幼少期から服飾に強い興味を抱いていたそう。

Q.服飾に興味をもったきっかけは?

「私は福井県で洋服店を営む両親の元に生まれました。小さな頃から服が好きで、無意識のうちに着心地の良い素材に惹かれていました。中学時代には既製服に満足できず自分で服作りを始めるようになり、パターンに興味を持つように。エスモード ジャポンという服飾専門学校へ進学して本格的にパターンを学びましたが、ここで受けた刺激や経験は今も大いに役立っています」

Q.どのようなシーンで学生時代の学びが役立っていますか?

「フランスにルーツを持つ学校ゆえに講師もフランス人の先生が多く、日本の価値観が通用しない世界でした。日本だと真面目に通い課題に取り組むことが評価を左右しますが、ファッションはセンスが全ての世界。勤勉さよりもセンスを求められ、結果を出さないと評価されません。だから自身の作品を客観視するシビアな目が養われたし、もちろん努力しないとセンスも磨けませんから、ディスカッションを重ねながらセンスや技術を向上させる必要がありました。ここで自分の作品を客観視しブランディングする術を学んでいなければ、ブランドを立ち上げることはなかったと思います」

Q.パタンナーからの独立、そして播州織との出会いとは

「実は独立を見据えて大阪の繊維商社に就職しました。当時パターンは手書きからCADに移行する過渡期で、会社でアパレルCADに触れながら現場を見て流れを学ぼうと思ったんです。最初から独立を想定して働いていたので、ひと通り学べたと感じたタイミングで退職しました。もちろん独立には勇気がいるけれど、若さゆえの無敵感に背中を押されたのかなと今では思いますね。播州織との出会いは素材展。播州織職人の西角さんのつくる生地が、どれもが1点ものという部分に惹かれました。ただ、播州織はビジネスシャツの定番素材なので展示品はシャツが中心。シャツだと1点1点の違いが分かりづらく、展示者の方にせっかく唯一無二な素材なら違いが分かるものにしなければ面白くないと生意気なことを言ったんですよね。もともと播州織はシャツにするようなハリのある素材。けれどその頃の私は織物の知識がなく、もっと軽く心地よいものを作って欲しいと注文しました。すると1週間後に連絡があり初めて西脇市に足を運んだんです。西角さんとの出会いがのちに西脇市に移り住み、播州織をブランドの軸にしようと決心したきっかけですが、もちろんとんとん拍子にブランド設立というわけにはいきませんでした」


偶然完成したショールが道標に

その頃の玉木さんの拠点は大阪。一時は地元の福井に帰っていたこともあり、西角さんとは電話でやりとりをしながら生地を発注していたため思い描くものとは齟齬があったのだそう。また当時は播州織らしくシャツを作っていたものの、作業工程の多さの割に単価が高くないシャツばかりを製作する毎日に心が折れそうになったことも。

Q.当初はシャツをメインに作られていたんですよね。

「私、シャツが苦手なんです(笑)。ゆるっと軽やかで楽な服が好きなのに、生活もあるから播州織の王道であるシャツを仕方なく作る日々。希望通りではない生地で苦手な服を作り続けていたこの時期が一番辛かったですね。そんな時にちょうど生地を織るタイミングに立ち会う機会に恵まれて。電話ではなく直接色や風合いの希望を伝えると、目の前で理想通りの生地が仕上がったんです。それで現場にいることの重要さが身に染み、2009年に西脇市に移ってきました。今は多くのスタッフがいるけれど、移住当時は3人だけ。まだメインの作品もお金もなかったのに、思い切って力織機を導入したんです」

Q.価格が価格なだけに勇気がいる決断です。

「とても古いもので機械自体はとても安価でしたが、分解して搬入し組み立てるのに莫大な費用がかかりました。国からの補助金制度を利用しても借金をすることになり、もし立ち行かなくなって返済が遅れても殺されはしないだろうと腹を括りました。その後、生地開発中に偶然生まれたのがブランドの顔であるショール。柔らかさを追求していくうちにシャツにはできないくらいの生地ができ、ふと首に巻くとすごく心地よかったんですよ。それでこれを主役にしよう、と。偶然の産物であるショールがtamaki niimeの道標となったわけです」


自然と共生するクリエイティブ

その後は積極的に様々な織機を導入し、2016年には染色工場跡に構えたラボ&ショールームが完成。広い敷地には犬や羊、ポニーといった動物たちが自由に暮らし、生地の原料である農薬不使用の綿花栽培やお米などの栽培までを行なっています。それはまさにひとつの「村」。

Q.ファッションの枠を飛び越え進化を続けられています。

「私たちはtamaki niimeのことをファッションブランドとは思っていなくて、ネイチャーブランドだと考えています。理想は自分たちの身の回りの全てが自分たちの手で作ったモノであること。今はハギレを糸に戻し生地として再生する取り組みも行なっていて、そういうことも含め地域ぐるみでやっていければ。いわばここは循環型社会のミニチュア版です。私自身自然から学ぶことが多く、自然の中では五感が研ぎ澄まされます。今は米作りやトークイベントなどに多くの方々が参加してくださっていますが、これも最初は社員教育の一環でした。働く場所にワクワクと楽しみがあればいいな、と始めたことが地域の方と共有できるのは嬉しいこと。地域に根づき若い世代を育てるのも会社としての目標ですね」

Q.一般のお客様がいつでも自由に見られるラボというのは画期的ですよね。

「私が移住してきた時、西脇市は播州織の産地でありながら、どこで作っているのかが全く分かりませんでした。他所から訪れた人に播州織の魅力を楽しく伝えられる場所が欲しい、じゃあ作ろう、そういう発想でこのラボが完成したんです。こういった視点は私が西脇市出身ではないこともあるだろうし、ブランドがここまで来たのも外部の人間だったから、ということは少なからずあるかと思います。私たちの作品は昔ながらの播州織とは別のもの。理解してもらうのに時間はかかったけれども、他所から来た女性が播州織を盛り上げようとしていることを応援してくださる方も多かった。そういう力に助けられたことも大きかったですね」

玉木さんのデザイナーネームである「新雌」。新しい女性像を提案したいと込めたその想いの通りに逞しく、そしてしなやかに前進を続ける彼女の両脇に居並ぶのは、気持ちを同じくする多くのスタッフ。後編となる次回は、tamaki niimeでの働き方や求める人材について掘り下げます。


玉木 新雌 たまき・にいめ

福井県出身。エスモード ジャポンでパターンを学び、繊維商社にパタンナーとして就職。

独立後、播州織に出会い2004年に大阪府で「玉木新雌/tamaki niime」を設立。

2009年から播州織の産地である兵庫県西脇市に移住し、彩り豊かで着心地の良い唯一無二のモノづくりを行う。

2016年には染色工場跡にラボ&ショールームを構え、綿花の栽培など素材からのmade in Japanにこだわっている。

https://www.niime.jp/


TEXT:横田 愛子

PHOTO:大久保啓二

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