no.44のバイヤーを務めた後にVogueに入社、そして33歳で単身ニューヨークに渡り現在までファッションエディター、スタイリスト、ファッションディレクターとして幅広い活躍をしてきた竹中祐司さん。働くための新たなフィールドを自ら切り開き、枠にとらわれないキャリアはどのようにして築かれたのでしょう?竹中さんのキャリアストーリーからファッション業界で活躍するためのヒントを得たいと思います。
バイヤーからVOGUEのファッションエディターに転身
−竹中さんは元々バイヤーとしてファッション業界に入り、その後ファッションエディターとしてVOGUEで働かれていましたね。
もともと「no.44」というセレクトショップでウィメンズのバイヤーをやりながら、店舗のディスプレイなども手がけていて、自分がつくったボディのルックをそのままお客さんが買ってくれたり、スタイリストさんが借りてくれたりして、なんとなくこういう仕事って面白いなって思っていました。当時は単純に「ビジュアルがつくりたい」と思ってファッションエディターという職業に就きたかったんですけど、日本にはファッションエディターという仕事はあまりなくて、唯一募集していたVOGUEに縁があって入社することができたんです。
−バイヤー出身は珍しい経歴だったのでは?
他の人たちとはバックグラウンドが全然違うので、編集部ではストリートを知っている存在として可愛がってもらっていました。全然違う世界でしたけどすごく楽しかったです。バイヤー時代は社長の次のようなポジションだったので、周りからしたら「それを捨ててなんで来たの?」という感じだったと思うんですけど(笑)。貸し出し返却や撮影準備など、他の人が嫌がる仕事も結構楽しんでいました。
−VOGUEで学んだことは?
それまでのキャリアを捨て、一からファッションエディターとして学ぶことで、服がどうつくられお店に並べられ、どう雑誌に取り上げられて売れていくのか、結果的にファッション全体の流れを把握することができました。VOGUEには短い期間しか在籍しませんでしたが、この頃の濃い体験が今の財産になっています。
苦労したことはない、大変よりも楽しいと感じるタイプです(笑)
−その後にフリーのファッションエディター、スタイリストとして独立されました。
独立した理由は、これまでアシスタントとして携わってきた撮影を自分で企画してやってみたいと思ったからです。フリーになってからはファッション系の様々な媒体でファッションエディターとして仕事をしたり、アパレルブランドのディレクションを手掛けたり色々な仕事をしていました。
−バイヤー、ファッションエディター、スタイリスト、ファッションディレクターなどかなり幅広く活躍されて当時苦労したことは?
広く浅く、当時は中途半端だったんですけどね(笑)。けど、苦労したと思ったことは一度もないんです。苦労を苦労と思わないタイプなんですよね。単身ニューヨークに渡ったときも周りからは「大変だったでしょ」と言われたんですけど、全くそんなことはなくて(笑)。大変よりも楽しいって思ってしまうんですよね。
“世界のトップの人たちと仕事がしたい”。33歳で単身ニューヨークへ
−日本でキャリアを積んでから渡米されたわけですが、その理由は?
ある雑誌のコントリビューターとしてファッションエディターをやっていて、海外で取材をすることが多かったんです。バイヤー時代から海外は慣れていたんですけど、意外と仕事以外だとあまり英語が話せないことに気づいたんです。直接自分の言葉で伝えたいという気持ちが強くなっていた頃、来日したカール ラガーフェルドと一緒に「Interview Magazine」の撮影をするタイミングがあって、伝えたいことを100%自分の言葉で伝えられないストレスもあり、英語圏に行こうって決めました。
−ニューヨークを選んだのはなぜ?
特に理由はなかったです。英語圏だし、なんとなく街の空気感が合いそうだなって思って。直感だけを信じて若干(?)33歳のときに渡米しました。渡米直後は英会話学校に通っていたんですけど、すぐにエージェントが決まって少しずつスタイリストの仕事をするようになりました。契約したエージェントはイタリア系の会社で、イタリア版VOGUEの仕事も多かったので、その頃からニューヨークとヨーロッパを行き来するようになりました。
−ツテもないなかで仕事を得る「自分の売り込み方」とは?
ニューヨークで仕事を始めたときは、「最高のポートフォリオをつくりたい」とだけ思っていました。ただそれだけだったんです。世界にはものすごいフォトグラファーやデザイナーがいて、どうやったらそういう世界のトップの人たちと一緒に仕事ができるか、そればっかり考えていました。だから、とにかく自分のこれまでのブックを色々なエージェントに持って行って、どれだけ自分という存在がお金になるかをアピールしました。
いかに自分が好きなことをできる環境をつくれるかが重要
−渡米して1年後にはロバート ゲラ(Robert Geller)のクリエイティブディレクターに就任し、その後もご自身のマガジンを立ち上げたり、かなり多岐にわたって活動されましたね。
ロバート・ゲラとは友人を通じて出会い、ファーストシーズンからクリエイティブディレクターとして企画から生地選び、スタイリングからショー全体のディレクションまで、現場監督のように関わっていました。2010年に同ブランドがGQのヤングデザイナー部門で受賞した時は、すごく嬉しかったですね。
その1年後には仲間と「ニューワークマガジン(NEWWORK MAGAZINE)」という、アート、グラフィック、ファッション、タイポグラフィで成り立つマガジンを立ち上げました。ファッションはコマーシャルなものなので、自分たちがつくりたい100%のことをできる媒体ってなかなかないんです。だったら自分たちでつくるしかないと、この雑誌をつくりました。ファッションディレクターという立場で、毎回イシューごとのテーマを決めて、ビッグなフォトグラファーにアプローチして、今考えてもありえない人たちと一緒に仕事ができたと思います。
(NEWWORK MAGAZINE issue 01)
媒体もそうなんですけど、僕は自分が自由に動けるスペースをつくることが得意なんだと思います。いかに自分が好きなことをできる環境をつくっていけるか、新しい仕事をつくるためには重要なことだと思います。
−当時は渡米2年目でしたが、その頃の英語力はどうだったんでしょう?
今考えたら全然ダメだったと思いますよ(笑)。でも、せっかくニューヨークに来たから日本人とつるんでもしょうがないって思ってたので、日本人のいない場所いない場所ばかり行くようにしていました。それが英語の上達にもつながったんだと思います。
当時は、話せないなりに海外の人に対してどうやってプレゼンをするか考えてかなり準備はしていましたね。アルバート ワトソン(Albert Watson)というフォトグラファーにプレゼンした時も、彼が好きそうなものを事前にかなりリサーチして臨みましたし、クリエイティブの世界には共通言語があるので多少言葉が通じなくても伝わる部分もあったと思います。プレゼンだけじゃなく普段のミーティングでも準備は大切にしています。先手必勝ですから、こんなにやってきているんだって相手に思ってもらうだけでも効果的です。
Interview&Text:Mio Takahashi(Fashion HR)
YUJI TAKENAKA
1996年からセレクトショップのバイヤー/VMDを経験後、2001年コンデナスト・ジャパン(VOGUE編集部)入社。独立後フリーランスとして2005年からNYで活動する。2006年からRobert Gellerのクリエイティブディレクターとして、ショーのスタイリング、会場のデザインを担当。2007年にはNEWWORK MAGAZINEをファッションディレクターとして立ち上げる。現在はブランドのコンサルティングや個店のバイイングアドバイザー/コンサルティング、店舗ディレクションなども手がける。