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文化服装学院 花の9期生

1923年に日本最初の服装教育の学校として認可された文化服装学院。約100年もの間、才能溢れる人材を輩出し続け、日本のファッション教育を牽引しています。これまで『Yohji Yamamoto』の山本耀司や『HIROKO KOSHINO』のコシノヒロコなど名立たる面々が文化服装学院からデザイナーとして巣立っていきました。そんな中でも1960年代に出合い、後に「花の9期生」と呼ばれた5人がいることをご存知でしょうか?『JUNKO KOSHINO』のコシノジュンコ、『KENZO』の高田賢三、『NICOLE』の松田光弘、『PINK HOUSE』の金子功、『MINE MAY』北原明子。1979年に文化服装学院60周年を記念して開催されたファッションショー「世界にはばたく、10人のデザイナーたち」にはなんと全員が選出されました。日本のファッション史を語る上で欠かせない5人について紹介します。

コシノジュンコ(JUNKO KOSHINO)

どこか近未来的でありながら和の要素もふんだんに感じさせる『JUNKO KOSHINO』。創業者のコシノジュンコは言わずと知れたコシノ三姉妹の次女。一足先にデザイナーとして頭角を現した姉・コシノヒロコに続く形で文化服装学院へ。なんと史上最年少の19歳で第7回装苑賞を受賞しました。文化服装学院卒業後は、同期の高田賢三や松田光弘よりも早く憧れのパリに視察旅行へと赴き、1966年に『COLETTE』というブティックをオープン。1970年代にはグループサウンズの衣装製作でもその才能をいかんなく発揮しました。親友、そしてライバルでもあった高田賢三がブランドを立ち上げると、刺激を受けて1971年に『JUNKO KOSHINO』をスタートさせます。1978年にデビューを果たして以来、22年に渡って参加したパリコレも、高田賢三のショーを見て展示会よりもこちらの方が自分に合っているということに気付いたことがきっかけで目指し始めたのだそうです。


高田賢三(KENZO)

大胆で色鮮やかな柄使いが特徴の『KENZO』。中でも花柄はブランドを象徴するデザインですが、ゆったりとしたシルエットが多く、甘くなりすぎず男女問わず楽しめるブランドです。実家が日本旅館を営んでおり、小さい頃から和箪笥や押し入れに仕舞ってあった反物や毛糸玉で遊んでいた高田健三。服飾の道に進もうとするも、まだ男子を受け入れる服飾学校がない時代だったため神戸外国語大学に進学しましたが、在学中に文化服装学院が男子募集を解禁したことで中退し、文化服装学院に入学しました。同期であるコシノジュンコが19歳という若さで第7回装苑賞を受賞すると、負けじと第8回装苑賞を受賞しました。文化服装学院卒業後はパリに渡り、1969年に『KENZO』の前身ブランドとなる『JUNGLE JAP』を立ち上げました。1970年には名前を『KENZO』に改名、パリコレデビューを果たしました。

pixarno – stock.adobe.com

松田光弘(NICOLE)

松田光弘が立ち上げた『NICOLE』。1970年代以降は『MOUSIEUR NICOLE』や『MADAME NICOLE』など派生ブランドが複数生まれました。シンプルでキレイめのデザインからカジュアルまでテイストは様々ですが、どれも細めのシルエットが特徴です。松田光弘は早稲田大学を卒業後、高田賢三と同じタイミングで男子を受け入れ始めた文化服装学院に入学。卒業後は高田賢三と共に『三愛』に入社。『三愛』は文化服装学院の同期でもある北原明子も働いていました。約半年という期間を決めてパリへ。パリの魅力に魅せられた高田賢三はそのままパリに残り、帰国した松田光弘は1967年に『NICOLE』を立ち上げました。『NICOLE』は『MODE CONSTRUCTOR』をコンセプトに、過去の既成概念を壊して突き進む若者たちに向けて最新のトレンド、進化していくデザインを発信。1970年代には大規模なファッションショーを開催し、1980年代のDCブームの立役者となりました。


金子功(PINK HOUSE)

ファッション黄金時代とも言われるDCブーム真っ只中の1982年に誕生した『PINK HOUSE』。フリルとレースがふんだんにあしらわれ、花柄やパッチワークなど乙女心をくすぐるデザインで日本中の女性を虜にしました。ロリータファッションと混同されることもありますが、ロリータと違うのはスカート丈がロングが多かったことと、「色」でした。『PINK HOUSE』はほとんどの服が赤とピンク。当時は黒一色だったトレンドに衝撃を与えました。創設者である金子功は「薄荷」や「赤茶」など着物の世界にしか残っていないような日本独自の色をロマンティックでガーリーなデザインに落とし込み、通常1~2回しか行わない染色を4回もしていたと言います。ピンタックやフリルは大変細かく緻密で、店舗に服飾学生が勉強のために訪れるほどだったそうです。『PINK HOUSE』は1982年に『株式会社ピンクハウス』となりましたが、その前は文化服装学院の同期である松田光弘の『株式会社ニコル』だった時代もありました。1994年に金子功は退きましたが、40年近く経った今もなお変わらぬ世界観で多くのファンを魅了しています。


北原(黒田)明子(MINE MAY)

1976年に創業された『MINE MAY』のコンセプトは「心に響くウェア」。北原明子の作る服はファッションショーで魅せるというよりも日常に根付いた人の暮らしを豊かにしてくれる服。華美でも派手でもなく、それでも女性としての魅力を引き出してくれ、心躍らせるパステルカラーも少しグレイッシュにすることでどんなシーンでも気兼ねなく「カワイイ」を着ることができます。それでも「普段着」よりもどこか特別な場所へでかけるための「おしゃれ着」として愛されてきたのは、文化服装学院で学んだ服作りのクオリティでした。良質な素材を使用していることはもちろん、ボタンホールやボタンも全て手作り。そんな着る人の気持ちに寄り添った服作りは娘である北原果利に受け継がれ、今は彼女が『MINE MAY』のプランナー・デザイナーとしてブランドを支えています。

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