アパレル・ファッション業界の求人・転職ならFashion HR

記事一覧

DCブランド御三家出身のデザイナーたち~受け継がれるブランドの精神~【後編】

1980年に日本国内で社会的大ブームとなった「DCブランド」。デザイナーズ&キャラクターズの略とされる国内の高級ファッションブランドの総称です。単品大量生産が主流だった1970年代、デザイナーたちがマンションの一室で多品種少量生産の服づくりを始め、次々と新進気鋭のブランドが誕生しました。特に御三家と呼ばれる「ISSEI MIYAKE」、「COMME des GARCONS」、「Yohji Yamamoto」がその後のファッション業界に与えた影響は計り知れません。今回はブランドの精神がどのように受け継がれていったのか、御三家出身デザイナーを紹介しながら触れていきたいと思います。後編は「Yohji Yamamoto」について紹介します。

【目次】
Yohji Yamamotoとは
Yohji Yamamoto出身のデザイナー
リスペクトが繋ぐデザイナーの精神

Yohji Yamamotoとは

「Yohji Yamamoto」のデザイナーであり日本人デザイナーで唯一フランスの芸術文化勲章「シュバリエ」を受賞した山本耀司は、洋裁店を営む戦争未亡人の一人息子として生まれ育ちました。貧しい環境でも懸命に働く母の姿とミシンの音、アイロンの匂いが彼の原点であり、反骨精神の源。慶応義塾大学では周囲をお金持ちに囲まれ、社会に出る気を失い、バックパッカーとして世界を放浪している時期もありました。母の洋裁店の手伝いを申し出ましたが、母の勧めで文化服装学院へ。1977年には東京コレクション、1981年には「COMME des GARCONS」の川久保玲と共にほとんど黒一色のコレクションでパリコレクションデビューを果たしました。当時の黒は喪服の色とされ、「貧乏ルック」と揶揄されることもありましたが、「黒の衝撃」と呼ばれ、大きな話題を呼びました。体のラインを出さずに、体と服の間に空間を作ることで体の動きに合わせて服が変化するという独自のスタイルも「Yohji Yamamoto」の魅力。あの北野武も「Yohji Yamamoto」のファンだと公言しており、映画「BROTHER」「アウトレイジ」などの衣装を手掛けました。


Yohji Yamamoto出身のデザイナー

・田山淳朗(ATSURO TAYAMA)

無彩色をベースにしたシンプルな見た目ながら、複雑なパターンやカッティングが特徴の「ATSURO TAYAMA」。デザイナーの田山淳朗は文化服装学院の同期である津森千里やドン小西と服づくりの基礎を学び、1975年に卒業後は文化服装学院の大先輩でもある山本耀司率いるワイズに入社。「Yohji Yamamoto」のヨーロッパ拠点設立のため渡仏し、長い間フランスで活動します。バッグ一つでパリに飛び、言葉が全くわからない中で物件を探し、会社登記をこなし…本人も人生で一番大変だったと語るこの経験が今の彼を作ったと言っても過言ではありません。1982年に帰国・退社すると自身のブランド「A.T」を立ち上げ、1989年には再びパリで「ATSURO TAYAMA」を立ち上げました。1991年には師匠である山本耀司も活躍するパリコレデビューを果たします。

・瀬田一郎(setaichiro)

女性の自然な美しさやしなやかさを引き立てるナチュラルでエレガントなデザインの「setaichiro」。デザイナーの瀬田一郎はその上品なデザインからは想像もつかない経歴を持っています。東京モード学園を卒業後、当時デザイナーを募集していなかった「オンワード樫山」に飛び込みで連絡。門前払いされても諦めることなく挑戦し、3回目にして採用されました。「オンワード樫山」で働きながら、バッグのイベントのため来日したジャンポールゴルチエに「あなたのパリのアトリエで働きたい」と直談判。「じゃあ来れば」というゴルチエの一言ですぐパリへ。今まで何人ものデザイナーに声をかけられてきたものの、本当にパリまで来たのは瀬田一郎が初めてだったそうで、「来てしまったものは仕方ない」とアトリエで働くことになりました。彼のドラマのような人生にはまだ続きがあります。ゴルチエのコレクション会場で偶然、山本耀司と田山淳朗に遭遇したのです。ゴルチエのスパッツを穿いて、髪はリーゼント、長いドクターマーチンを履いたインパクトある瀬田の姿に、なんと二人の方から話しかけてきてくれたそうで、帰国後「ワイズ」、「Yohji Yamamoto」企画チーフを務めました。

・藤田哲平(sulvam)

「人の一部となる物づくり」を根幹に置き、しっかりと固められた基盤の上に成り立つ柔軟な発想から生まれるモードスタイルが特徴の「sulvam」。デザイナーの藤田哲平は21歳で「Yohji Yamamoto」にアシスタントとして入社、7年間パタンナーを経験しました。文化服装学院の夜間部に籍は置いていたもののあまり通っていなかったという彼は、服づくりの基礎、生地企画、生産、営業に至るまでのすべてを「Yohji Yamamoto」で学びました。中でも、山本耀司から学んだ「服を作ることは自分のエゴを押し付けることじゃない」という教えは今でも彼の服づくりを支えています。山本耀司と言えば「仕事中にぶっ倒れるのが理想」という発言が有名ですが、「体が動かなくなって服を作れないなら死にたい」という藤田哲平の言葉からは「Yohji Yamamoto」の反骨精神、「命がけの服作り」が見てとれますね。


リスペクトが繋ぐデザイナーの精神

ここまでDC御三家と呼ばれる「ISSEI MIYAKE」、「COMME des GARCONS」、「Yohji Yamamoto」を紹介してきました。この3ブランドに共通するのは「既存概念」に捕らわれないモノづくり、そして世界を相手に戦ってきたということ。「Yohji Yamamoto」が2013-14年秋に発表したコレクションでは、「COMME des GARCONS」の川久保玲を思わせるボブヘアーのモデルが「COMME des GARCONS」を彷彿とさせるルックで登場。さらには「ISSEI MIYAKE」の三宅一生が生み出した「BAOBAO」や「PLEATS PLEASE」を思わせるドレスなど、「ISSEI MIYAKE」と「COMME des GARCONS」へのオマージュとも取れるコレクションでファンを喜ばせました。それぞれのデザイナー同士がリスペクトし合い、彼らに憧れる若手デザイナー達にそのあくなき挑戦の姿勢、反骨精神が受け継がれてきたのです。近年では、御三家出身のデザイナーに憧れた若手たちも続々とデビューしています。もしかしたら私たちも知らないうちに御三家の精神が受け継がれたアイテムを身に着けているかもしれませんね。

【前編はこちら】

Fashion HRはファッション・アパレル業界に特化した求人情報サイトです!

FHR_top

ショップスタッフや店長などの販売職から、PR、MD、VMD、営業、総務/経理、秘書、ロジスティックスなどのバックオフィス職まで、外資系ラグジュアリーブランドから国内有名ブランドまで求人情報を多数掲載中。早速、会員登録をして求人をチェック!

   
無料会員登録する

記事一覧