販売職に携わる人、また販売スタッフの人事に関わる人など、リテール業界で働く人々にぜひ読んでほしい一冊『人を幸せにするMétier』が出版されました。著者で、リテール人事コンサルタントの青栁伸子さんに、販売職がなぜ”人を幸せにする“のか、お話を伺いました。
ラグジュアリー・リテール業界への転職。エルメスの面接時に準備したこととは?
−ラグジュアリー・リテール業界の人事の仕事をずっと続けてこられた青栁さんが著書を出版したきっかけとは?
まずは販売という仕事の素晴らしさを世の中の方に知ってもらいたい、という思いです。この仕事には様々な誤解や勘違いなどが多く見られ、今現在、販売という仕事についている方の中にも、それが原因でモチベーションを失ってしまう方もいます。それに対して、本当はこうなんです、こんなに素晴らしい仕事なんですよ、とこの仕事の魅力を声を大にしてお伝えしたかったというのが最大の理由です。
また、これまでは会社組織の中にいましたが、フリーランスとして特定のブランドには属さない立場になりましたので、今だからこそ書けることがあるだろうと思ったこともあります。
−第1章ではご自身のキャリアパスについて触れられています。青柳さんは、IT業界からリテール業界のエルメスへと転身されていますが、実際面接までにどんな準備をされたのでしょう?これまで何万人もの面接をしてきた青栁さんにぜひ伺いたいです。
エルメスの面接を受けるにあたって、特に準備したことはありません。あまりにも業界が違いすぎて、どんな質問をされるのかも想像できませんでしたので。ただ、私自身、エルメスで買い物をしていた経験があり、お客様歴は結構長かったので、その時々に店舗で経験したことを自分なりにコメントできるよう整理しておきました。お客様目線で見たブランドの印象やスタッフのこと、という観点ですね。
リテール業界で働くためには、実際にそのブランドの店舗を訪れたときの経験を、ポジティブなこともネガティブなことも、きちんと語れるかどうかが大切です。
また、これまでの仕事での経歴も、できたこと(成功体験)のアピールは誰でもしますが、うまくいかなかったことに対して、何を考えてどう対処したか、そこからどんなことを学んだか、そういった経験を話せることも重要だと思います。当時の面接の際に私が語った経験は、ITという全く違う業界のことでしたが、苦労することはどこでも一緒なんだね、という感想をいただいたことは覚えています。
販売職が人を幸せにするということを理解することが大切
−5章では、青栁さんが経験してこられた心に残る接客についてかなり詳細が綴られていますが、そうした内容はメモなどに残してきたのでしょうか?
いいえ、すべて覚えていたことで特別に書き留めていたわけではありません。今も手元にあるその商品を見れば「これを買った時には、こんな状況で、こんな会話をした」と、そのシーンを映像と台詞で思い出せます。それだけ記憶に残る経験をさせてくれた方々だったので、だからこそ、この本にエピソードを書きたいと思ったのです。
著書でも触れているエルメスで購入した鉛筆は当時7,000円しましたし、どんなに美しくても美しいだけでは買おうとまでは思わなかったと思います。会話をとおして私を感動させてくれたスタッフの力があったからこそ「買いたい」という気持ちが生まれ、これもください、と言ってしまったのです。
−その経験はまさに人の記憶に残る接客の好例ですが、タイトルである“人を幸せにするMétier”になるために必要なこととは?どんな経験が必要でしょうか?
まず自分の職業は『人を幸せにすることができる』ということを認識することだと思います。私もこのエルメスの鉛筆を買って幸せな気持ちになった一人ですが、実際に帰国後この鉛筆を持って会議に出たとき、当時の社長をはじめとする経営陣も興味津々で、その場がとても盛り上がり皆笑顔になりました。たとえ鉛筆1本でも、多くの人が笑顔になり幸せな気持ちになる、そのきっかけを作ってくれたのは接客してくれたスタッフなのです。
彼女はきっと自分の職業(Métier)が人を幸せにすることを知っているでしょうし、トップセールスになるような方々は、皆それを認識していると思います。お客さまがその商品を買った(手に入れた)後の幸せな気持ちまでを思い描いて、その笑顔のために仕事をしているのではないでしょうか。
販売職の処遇改善、地位向上のために必要なこと
−販売職の多くはまだ低賃金や残業時間の多さが問題となっていますが、どう変わるべきだと感じますか?
もちろんビジネスですから、売上げが上がらないので人件費を削るという判断は必要かも知れません。とはいえ働いているスタッフの待遇が悪ければモチベーションにもつながりませんので、売上げをあげていくことも難しくなります。難しい経営判断の一つだと思いますが「店舗のスタッフを大切にしない限り、業績はあがりません」ということは、人事の立場として言い続けていたことです。
会社の業績が思わしくなく全員の昇給はできないまでも、会社にとって絶対失えない人には少しだけでも昇給してきちんとした処遇をしていけば、会社の姿勢や思いは伝わると思います。
人事だけでも、経営陣だけでも、スタッフ個人だけでもなく、全社が一つになってそれぞれの立場で会社の業績を上げるという目標に目を向けていけば、必ず結果には繋がると思います。人を減らすのではなく、もっと力を発揮するにはどうしたら良いのかを皆で考える、ということですね。また、その会社(ブランド)で働くこと自体がモチベーションになるように、会社としての魅力を持ち続けることも大事だと思います。人は処遇だけで動く訳ではありませんので。
−販売職の地位向上のために何ができるのでしょうか。
たとえばエルメスでは、販売職のグレードを5段階に分けてステップアップのイメージができるようにしていました。現在私がコンサルタントとして関与しているブランドでもワールドワイドでそうした制度を取り入れています。実力のある人には相応の評価とそれに伴なう待遇を得てもらい、そこを目指す人たちにとっての目標になってもらうのが、こういった制度の目的です。
日本では販売職のスキルが、専門的な技術として認知されていないところがありますが、海外では、特にラグジュアリーブランドのスタッフの地位が軽く見られるようなことは決してありません。販売職とは、誰にでもできるものではなく、とても専門的な仕事をしているのだという認識が人々にあるのです。
日本での販売職への認識を少しでも変えたいと思い、本の中にも複数のエピソードを書きましたが、専門職として認められるためには、スタッフの側も自分たちは「この道のプロである」という意識を持つことも地位向上の一つの鍵になるのではないでしょうか。
−女性の雇用環境改善のためにはどんな意識改革が必要でしょうか?
販売スタッフは若い女性が多いので、結婚や出産、育児でキャリアを中断せざるを得ないタイミングがあると思います。最近では介護で仕事を離れるケースも増えています。ただ、そうしたときも働く側も雇用する側も、双方が『フルタイムの正社員』にこだわらないことが大切だと思っています。フルタイムの正社員でなくても、たとえ短時間勤務やアルバイト雇用、本当に忙しい時期の2,3日のヘルプであっても会社とつながっておいてほしいのです。
子育ては未来永劫続くものではなく、育児が落ち着くのはだいたい10年くらいと言われています。そのときにフルタイムの正社員で働くことを目標に、少しずつでも仕事を続けて会社(社会)とつながっておく、長期計画にはなりますが雇用側も同じ目標を共有していれば実現は可能だと思います。ですから女性には自分のキャリアを結婚や出産で切ってしまうのではなく、どうやってつなげていくかを考えてほしいですし、企業側もキャリアを積んできた優秀な人材を完全に手放してしまうのは損失だという意識をもって、どうつながっていくか、その方法を柔軟に考えることだと思います。
これは女性だけのことではなく、男性の子育てや、男女を問わず介護に携わっているスタッフに関しても同様だと思います。
ファッション業界全体で販売員のモチベーションを高めたい
−最後になりますが、青栁さんご自身は今後どのような活動を考えていらっしゃいますか?
昔から人事の仕事を辞めたら、販売職をやりたいと思っているんです。最近、店長として定年を迎え今は派遣社員として自分のペースで販売をしている方に会ったのですが、スタッフとして、心から販売を楽しんでいる姿がうらやましかったです。もちろん、まだ人事のプロとしてやりたいこと、力を発揮できることはあると思いますので、販売職の素晴らしさの伝道師となりながら、お世話になったリテール業界に様々な形で恩返しをしていきたいと思っています。
−今後の益々のご活躍を楽しみにしています。ありがとうございました!
これまでの豊富な経験をもとに、販売職の魅力、現状の課題、それに対する解決案などをたっぷりお話ししてくださった青栁さん。温かい言葉の一つひとつは、販売職のみならず、ファッション業界で働く多くの人へのエールとなるのではないでしょうか。
著者プロフィール|青栁 伸子さん
エルメスジャポン、ボッテガ・ヴェネタジャパン、フォリフォリジャパンの各社で人事・総務部門の責任者として、人材育成・組織開発・制度設計などにあたる。同時にビジネスパートナーとして、経営陣に対して人事的な側面からのサポートを行い、会社の業績向上にも寄与。
特に接客販売職の「専門職」としての地位確立、処遇の改善、女性が無理なく永く働ける環境づくりなどに注力。2015年にコンサルタントとして独立。